海外遠征史




はじめに

 もう一昨年のことになりますが、フジヤマケンザンが平地の海外重賞をなんと36年振りに制覇しました。戦績からは超1戦級とはいえないフジヤマケンザンが国際G2を勝ったことは、今後日本馬が世界でも十分活躍できるのではという淡い期待を持たせてくれました。しかし、このフジヤマケンザンの大きな勝利までには多くの人の苦労と夢を背負った馬たちがいたのです。今回、数少ないデータの中から日本馬の海外遠征についての歴史を繙いていこうと思います。何分、海外遠征に関する書籍や映像は非常に少ないもので、考え違いやちょっとしたミスなど多々あるかもしれませんが、気づかれた方ぜひ御一報下さい。また参考書籍や遠征にまつわるエピソードなどご存じの方、教えていただけると非常に助かります。

 なお内容は最初の方は文字ばかりですが、途中表などおりまぜてみます。データの整理もあって、少しづつ更新していくことになりますのでご了承下さい。



1.日本初の海外遠征馬

 まずは日本で初めての海外遠征というのは、今から約40年前の1958(昭和33)年7月まで遡ります。1958年というとシンザンが3冠を達成したのが1964年、コダマの2冠(皐月賞、ダービー)はその4年前の1960年、そのさらにその2年前がこの年です。前年の年度代表馬「ハクチカラ」のアメリカ遠征が最初の海外遠征なのですが、ハクチカラとはいったいどういう馬だったのでしょう。少しこの馬についてふれてみます。

ハクチカラ(父)トビサクラ(母父)ダイオライト
(母)昇城(母母)月城

栗毛 牡 1953.4.20生

(全成績) 国内 32戦20勝

(主な勝ち鞍)ダービー、天皇賞、有馬記念


 ハクチカラは母、昇城にとって3番目の産駒で当歳時から馬格があり牧場(ヤシマ牧場)の相当な期待を担っていました。牧場主の小林氏はハクチカラは手放さないと言っていたようですが、結局は西氏が当時最高価格の300万円で買い取ります。ダービーの1着賞金が200万円だったことを考えると単純計算で現在なら約2億円程度という破格なものでした。

 デビュー後のハクチカラは、皐月賞まで7戦5勝2着2回という期待通りの活躍を収め、皐月賞でも1番人気におされます。しかしここに1頭のライバルがいるんですね。皐月賞まで10戦7勝2着2回3着1回というこちらもすばらしい成績のキタノオーです。

 ハクチカラの方は名牧場の出で、血統的背景と良血馬らしい気品さがある流星無白徴の栗毛だったのですが、一方のキタノオーは母系の成績は良かったもののクラシックを勝つような血統とはいえず、生まれもアラブを中心に生産していた牧場でただ1頭サラ系とされた馬だったのです。そういうことでハクチカラの方が期待され、人気もあったんですね。皐月賞ではハクチカラが1番人気、キタノオーは続く2番人気でした。それまでの2頭の対戦成績は1勝1敗、雌雄を決するにぴったりの1戦だったのですが、しかしながら結果は伏兵ヘキラクが穴をあけ、2着はキタノオーが入ったものの、ハクチカラの方は大敗してしまいます。

 キタノオーとの戦いはこの後も続き、ダービーはハクチカラが、菊花賞はキタノオーが勝利を収めます。そしてその翌年の戦いはすさまじく、両馬とも毎レース60kgを越える斤量を背負いながらも次々と勝ち数を増やしていきました。特に久しぶりの直接対決となったオールカマーではハクチカラ65kg、キタノオー64kgで出走、ここではキタノオーに軍配が上がります。そして続く目黒記念では逆にキタノオー65kg、ハクチカラ64kgで出走、今度はハクチカラが勝利を収め、他の軽量馬は全く寄せ付けなかったようです。

 昭和33年5月、そんなライバルとの戦いを終えたハクチカラは6歳にして主戦の保田隆芳騎手と共に渡米し、ここに日本馬としては初の海外遠征が為されたのです。



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