海外遠征史




13.ある夏の日

 サンデーサイレンスの初年度産駒からは数々の有力馬が出ました。牡馬ではフジキセキ、ジェニュイン、タヤスツヨシ、マーベラスサンデー。牝馬にはプライムステージ、サイレントハピネス、ブライトサンディーなどなど。サンデーサイレンス一色に染まった1年でした。そしてその初年度産駒の中の牝馬の代表格がダンスパートナーです。

 ダンスパートナーは生まれながらにして遠征の宿命を持った馬、当歳時にフジキセキやタヤスツヨシらと共にブリダーズカップの登録を行った馬でした。そんなダンスパートナーの遠征計画の発表はオークスから2週間が経った平成7年6月5日、内容は8月から2ヶ月間の遠征でトライアルのノネット賞(G3)を経て、本番のヴェルメイユ賞(G1)に向かうと言うものでした。このヴェルメイユ賞というレースは秋の4歳牝馬の女王決定戦。日本での位置付けで言えば、秋華賞にあたるレースです。このレースの後はここをステップに凱旋門賞へと向かう馬も多く、上位入選馬も出ています。では欧州の一線級の馬が集うこのレースに向けてのダンスパートナーの2ヶ月間を追ってみることにします。

ダンスパートナーが旅立ったのは7月の末、17時間にもなる空輸でしたが、特に暴れることもなくパリのシャルルドゴール空港に到着しました。現地の気温が30度強であったことから心配されたのが輸送熱ですが、これも特に問題はなかったようです。厩舎到着後のダンスパートナーの様子は首から胸にかけて出てしまった皮膚病を除けば、いたって良好で食欲もあり、日本にはない小豆色のえん麦や青草、乾草を十分な量を平らげました。そして調教も開始されました。

 フランスに到着して初の追い切りとなったのが、8月8日。到着から約2週間が経過した日でした。まだ皮膚病が出たままではあるものの、追い切りに騎乗したジョッキーは「Good!」と笑顔で話したそうです。その後、1週間が経った15日、日本ではまず見られない実戦さながらの6頭での追い切りに参加します。最初は後方にいたダンスパートナーでしたが、最後の直線では鋭い脚で他の馬に追い付きほぼレースにも使える状態になりました。またこの頃には皮膚病もほぼ完治してきたようです。そしてフランスでの初戦、ノネット賞(G3)に出走する日が近付いてきました。

 ノネット賞は目標としているヴェルメイユ賞の重要なステップレース、出走メンバーもG1級の馬が揃い、ダンスパートナーの力を試すレースとしては適当と言えるレースだったでしょう。頭数は4頭、有利不利のない力だけの勝負でもありました。ただ逆にこの少頭数であったことで本番へのレース内容とういう面でのステップにはならなかったということはありました。レースの方は好スタートでペースに乗り、4コーナーからはマティアラ、ガーデンローズとの3頭での叩き合い、最後は首の上げ下げでの勝負になり、10cmという非常に僅かな差で2着に破れました。ただ本番へ向けてはまずまずの結果と言って良いでしょう。武豊騎手、現地で管理したバルブ調教師、そして白井調教師、吉田照哉氏といった関係者はみなその結果に納得したということでした。

 ダンスパートナーという馬はもともと右後脚の球節に不安を持っていました。そのために内側半分が欠けた3/4蹄鉄を使用していましたが、全力で走るとどうしても球節に外傷が起こり目一杯に追うことが出来ず、バンテージを巻き蹄鉄に工夫をこらしカバーするといた方法を取っていました。本番が近付く最終追いの日、この日もやはり終始軽く流す程度で芝を疾走することしか行なえませんでした。そしてついに9月10日が訪れます。8、9日と降り続いた雨も止み、ヴェルメイユ賞当日の10日は晴天に恵まれました。ヴェルメイユ賞の有力馬の1頭カーリングと共に馬運車でロンシャンへと移動し、レースを迎えます。ダンスパートナーは日本の競馬ファンに後押しされ、1番人気になっていました。

 スタートがきられたヴェルメイユ賞。ダンスパートナーはやや後方の内々を通り道中を進みます。ロンシャンではすでに何度か騎乗したことのある武豊ジョッキーはそのまま内を狙い、直線勝負に賭けます。ノネット賞とは違って多頭数での争いになった直線、ダンスパートナーの前には何頭もの馬が壁になり、前が開きません。鞍上はまともに追うことも出来ず、そのままゴールイン。結果は2馬身差の6着でした。ホワイトマズルでは大外一気の直線勝負に失敗し多くの非難を受けた武豊ジョッキー、 今回も賛否両論があり、2馬身差という結果にはプラスへの評価をするべきという意見もあれば、その騎乗ミスを指摘する声もありました。不利があっての2馬身差ならその騎乗法には様々な意見があったとしてもダンスパートナーが「力のない馬」とは誰しも感じなかったのではないでしょうか。「強い馬」とまでは言わないにしても、日本のオークス馬がヨーロッパでも健闘出来たという事実は、社台ファームを筆頭とした関係者、そして日本の競馬サークルへの1つの可能性への証明となりました。フランスの環境にすぐに馴染むことが出来たダンスパートナー。彼女は環境の変化にはあまり動じない性格の馬だったと白坂助手は語ります。その後、ダンスパートナーはエリザベス女王杯を回避し、菊花賞に挑戦。牝馬ながらも牡馬混合戦を中心に活躍し、大きな怪我もなくそのタフさを示します。そして遠征経験をいかし6歳の時に「舞伴」という名で香港へと再び遠征を行っています。非常に短期間だったこの遠征はパドックでの激しい入れ込みで結果が出てしまっていました。マイネルブリッジと共に出走した結果はダンスパートナー8着、マイネルブリッジ9着でした。フケが来ていたという話もありましたが、さすがのダンスパートナーもわずかな期間では、異国の環境に慣れなかったのでしょうか。

 2ヶ月にも及ぶ比較的長い期間での遠征となったひと夏の経験。オークス優勝時、414kgだった体重は、このひと夏の遠征の後、10月10日には444kgに成長していたそうです。国内でのローテーション、遠征への可能性と、日本の競馬に少なからず影響を与えた才女でした。



1995.8.27 ノネット賞 仏国 G3 芝2000m 武豊 3 2
1995.9.10 ヴェルメイユ賞 仏国 G1 芝2400m 1 6
1997.4.13 クイーンエリザベス
2世カップ
香港 G2 芝2400m 四位   8




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