海外遠征史




3.ワシントンD.C.インターナショナルS

 ハクチカラの遠征以降は、かねてから遠征話しがあったアメリカのワシントンD.C.インターナショナルSへの遠征が行われますが、ここで少し話を戻して遠征の背景にあるJRAの動きについても触れてみます。

 JRAの国際交流の動きでは、まずは英国ジョッキークラブとの国際協定の締結(昭和30年)、州競馬委員全国協会(NASRC)への参加(昭和33年)、ニューヨークジョッキークラブ研修への参加、AJC杯の創設(昭和35年)がありますが、中でも州競馬委員全国協会(NASRC)への参加は海外競馬への参戦を促すきっかけを作ることになりました。アメリカでは1950年代前期からローレル競馬場で国際招待競争の「ワシントンD.C.インターナショナルS」(以下インターナショナルSと略す)が開催されていまして、後に何頭もの馬が日本よりこのレースに参戦することになります。これは上で挙げた州競馬委員全国協会(NASRC)への参加が実を結び道を切り開いたものなのです。

 ハクチカラ以前の海外遠征については、昭和29年辺りからインターナショナルSへの参加という話が出始めて、昭和33年のNASRCへの参加からアメリカでのJRAの評価が高まり、さらにはハクチカラの重賞制覇もあったためでしょうか、昭和34年にクリペロがインターナショナルSへ招待されます。しかし残念なことにクリペロは辞退(理由不明)、オンワードゼアが代替馬となりますが、これも結局回避しこの年は実現しません。

 その後、昭和37年に6歳牡馬のタカマガハラがインターナショナルSに招待され、(父)クリノハナ(母)クモゼキの同馬はJRAの先導もあったのでしょう無事に初出走を果たします。南関東船橋出身の地方馬だったタカマガハラは3歳時11戦2勝、4歳時19戦2勝、5歳時12戦4勝(うち天皇賞秋制覇)、6歳時に8戦2勝と地方馬らしく中央に来ても走り続けた馬でした。この地方馬が遠征した時の相手は、キングジョージの勝ち馬、仏のマッチ、米の名馬ケルソ、米2冠馬キャリーバック、ソ連ダービー馬ザベッグなど強力メンバーで、実績的にも明らかにタカマガハラでは役不足、結局、結果は13頭中の10着と大敗でインターナショナルSのレベルの高さを感じさせるものでした。。しかしこの参戦は後にインターナショナルSに出走するスピードシンボリやタケシバオーにとって大きな情報をもたらすことになったはずです。タカマガハラ以降は、このレースにリュウフォーレル(天皇賞、宝塚記念、有馬記念)スピードシンボリ、タケシバオー、メジロムサシ、ツキサムホマレ、フジノパーシア、ハシクランツと7頭の馬が同レースに出走することになります。ちなみにこのインターナショナルS初参戦のタカマガハラは帰国後は2戦0勝(全成績35戦7勝)で中央競馬から去りました。



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