海外遠征史




5.欧州へ旅立つ

 ここで再び話は1960年代後半(昭和40年代)の平地に戻します。次に出てくるハマテッソは平地では5頭目の海外遠征馬となりますが、それ以前の馬はハクチカラ、オンワードゼア、タカマガハラ、リュウフォーレルの4頭で、全てアメリカ遠征、しかも後ろの3頭はワシントンD.CインターナショナルSへの参戦でした。次のハマテッソは初めてのアメリカ以外への遠征ということになります。となると遠征先はヨーロッパかというとそうではないんです。初の欧州遠征はその次のスピードシンボリなんですね。ではどこに向かったのでしょうか。それは南米ブラジルです。ブラジルで開かれるグランデ・プレミオ・サンパウロ(サンパウロ大賞典)は毎年南米の馬を招待して開催される国際競争で、ブラジル、ジダデ・ジャルディン競馬場で開かれていました。南米以外の国で招待されたのはこの時の日本が初めてで、日本側もその招待に対しハマテッソを送り込みます。レースの結果は、芝2400m、17頭立てで行われたこのレースで、11着と惨敗に終わりました。余談ですがこのハマテッソの名前は、海外にはありがちな(最近の日本も多いですが)父の名テツソ、母の名ハマユーからとっただけのものでした。

 ここで少し話はずれますが、海外遠征には2つ形があると私は思っています。1つは「強いからぜひ外国で戦わせてみたい」という場合、もう1つは「招待された(招待枠がある)から遠征する」場合の2通りです。現在の海外遠征は招待競争もかなり減ってしまったこともあって、「強いから海外に連れていく」前者のパターンがほとんどですが、昔は後者も相当あったように思います。さてハマテッソがこれに当たるかどうかは分かりませんが、結局良績を残すことは出来ませんでした。

 上のような招待競争以外に出走した馬は、過去ハクチカラのみでしたが、次の遠征馬スピードシンボリはその全盛期を迎え、欧州遠征を行った馬でした。参戦したレースもワンシントンD.CインターナショナルS,キングジョージ6世&クイーンエリザベスS、ドーヴィル大賞典、凱旋門賞と名前を聞いただけでもわくわくするようなレースでした。まずはこのスピードシンボリの戦績からのぞいてみることにします。

 3歳時、5戦3勝で4歳になったスピードシンボリは春のクラシックを皐月賞21着、ダービー8着と惨敗、晩成型だったのでしょうか秋には菊花賞で2着、有馬記念で3着になりますが、4歳時は10戦1勝といまいちな成績でした。しかし5歳になってからはAJC杯、目黒記念、天皇賞、日経賞と4連勝を果たし、現役最強と言っても良い存在になります。特に遠征への試金石レースであった日経賞には楽勝し、シンボリの和田共弘オーナーはかねてよりあたためていた海外遠征プランにゴーサインを出し、ここにワシントンD.CインターナショナルSへの参戦が決定します。またスピードシンボリというと野平祐二氏に触れないわけにはいきません。当時のジョッキー達は主に「天神乗り」という体を起こした姿勢で騎乗しており、今の前傾姿勢の乗り方とは異なるものでした。前傾姿勢タイプの「モンキー乗り」はハクチカラで遠征した保田隆芳氏が米国でマスターし、日本に紹介したということは既に書きましたが、「モンキー乗り」を完成させたのはこの野平祐二氏です。野平氏は積極的に海外競馬に参加し、その功績は日本のジョッキー界に多大な刺激を与えたことでした。実は私は「祐ちゃんを囲んで」という会に出席したことがあり、参加者が20名程度だったため様々なお話を直接聞く機会がありました。その中でこのモンキー乗りについて野平氏が触れ、「モンキー乗りを持ってきたのは私なんだよ」なんておっしゃっていました。

 さて遠征の方はスピードシンボリ5歳で挑んだインターナショナルSが9頭立てとなったものの、レベルは高いもので、主な出走馬に断然の本命で目下6連勝中だった米国のダマスカス、愛ダービーと英セントレジャー勝ちのリボッコ、仏のヴェルメイユ賞勝ちのカザクグリース、豪州のトビンブロンズ、カナダのヒーズアスムージイ、米国芝チャンプのフォートマーシーらでした。レースの展開は、ヒーズアスムージイが逃げ、2番手に野平氏騎乗のスピードシンボリ、続いてフォートマーシー、ダマスカスときて、リボッコは後方で前を見る展開でした。コーナーを曲がって直線に入ってからのスピードシンボリは追い上げてくる多馬に交わされながらも当時の日本のエースとして実力を発揮し、最後まで勝負根性を見せ粘り、リボッコ、カザクグリースらに先着する5着と大健闘をしてみせました。これは明らかに先のインターナショナルS出走馬とは異なるもので、タカマガハラ(13頭中10着)、リュウフォーレル(8頭中8着)を考えるとスピードシンボリ級の実力馬で全盛期の馬であれば、それなりの成績が残せるということを示したものでしょう。それは翌々年の欧州遠征のスピードシンボリの成績からもこのように考えて差し支えないと思います。

日付馬名性齢レース名距離騎手頭数結果勝ち馬
1967.5.14 スピードシンボリ 牡5 ワシントンD.C.
 インターナショナルS
芝2400m 野平祐二 9 5 フォートマーシイ

 インターナショナルS出走後、帰国したスピードシンボリは遠征の疲れか5歳冬、6歳春と不本意な成績に終わります。しかし秋になって体調が上向いてきたため8戦して5勝2着1回3着2回というあのスピードシンボリの強さが蘇ってきます。そして2度目の遠征、欧州の大レースへの参戦が決まるのです。

 ここで陣営が取った遠征スタイルは6月下旬から10月までの長期遠征で、月に1回のペースで3戦するものでした。6月下旬にイギリスに入り、初戦のキングジョージまで1カ月現地で調教を積み、フランスに移って、2戦目はドーヴィル大賞典、3戦目に凱旋門賞のステップでした。レースの結果はキングジョージでは9頭立ての5着、ドーヴィル大賞典では体調を崩しブービーの10着、凱旋門賞では24頭立ての10着と7歳で力が衰え始める時期にしては予想以上に良い成績でした。といっても凱旋門賞10着では好成績とはいえませんよね。帰国後、大レースを制しているスピードシンボリのいつが全盛期だったのか見極めるのは難しいですが、7歳時にこれだけの成績をおさめられたのは、非常に高い環境への順応能力があり、精神的にも相当強かったためでしょう。参加するだけではなく、ある程度見せ場を作れたのはハクチカラ以来のことだったのですから。後のシリウスシンボリよりこちらを長期遠征させていれば、ステークスウィナーには間違いなくなっていたはずです。

日付馬名性齢レース名距離騎手頭数結果勝ち馬
1969.7.26 スピードシンボリ 牡7 キングジョージ6世&
 クイーンエリザベスS
芝2400m 野平祐二 9 5 パークトップ
1969.8.31 ドーヴィル大賞典 芝2600m 野平祐二 11 10 Djakao
1969.10.5 凱旋門賞 芝2400m 野平祐二 24 10 Levmoss

 帰国後のスピードシンボリはかつての遠征馬の中では最もよい成績を収めます。帰国後初戦の有馬記念を勝ち、翌年は宝塚記念と有馬記念連覇を果たし、年度代表馬にもなりました。その血は後の3冠馬シンボリルドルフに伝わり、再びスピードシンボリの血が海を越えた国を走ることになります。また、これより海外に何頭もの馬たちを送り込むことになるシンボリグループには、様々な経験と情報をもたらし、 スピードシンボリは欧州遠征のパイオニアとして十分な役割を果たしました。



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