海外遠征史




6.タケシバオー2度の挑戦

 次に出てくるのは7頭目の遠征馬タケシバオーです。タケシバオーの国内のみの成績は27戦16勝2着10回3着1回着外なし(16-10-1-0)、という成績で皐月賞もダービーも2着、勝った現G1レースは天皇賞春のみと不運の馬でしたが、連対率はなんと96%、オープン戦13連続連対や5歳時に8連勝など史上に残る名馬でした。このタケシバオーは4歳と5歳時の2回、ワシントンDCインターナショナルSに出走しています。

 インターナショナルSの開催時期は毎年11月10日頃で、当時はまだブリーダーズカップも開催されておらず、世界の有力馬が何頭か集まるレースでした。日本では11月上旬というと4歳なら菊花賞、古馬なら天皇賞が番組に組まれていますので、当然インターナショナルSに出走するためにはこれらのレースはパスしなければならず、遠征後は有馬記念へ向かうローテーションが大部分でした。

 タケシバオーは春に皐月賞、ダービーで2着となり、その雪辱を晴らすべく秋の1冠に備えるのかと思われましたが、米国からの招待があり関係者は国内の大レースより、国外の大レースに夢を追い遠征することを決定します。タケシバオーが翌年の天皇賞を勝っていることを考えると日本に残っても菊制覇のチャンスは十分だったでしょう。菊を捨てて遠征を選んだその選択は当時のファンを燃え上がらせたことでしょうね。そのタケシバオーは国内で休養明けの一叩きとしてオープンレースに出走、結果は2着となり、これよりアメリカへと旅立ちます。この年は実はもう一頭ヒカルタカイも招待されていましたが、故障で回避することになり、タケシバオーのみが10月7日、成田より出発しました。これが4歳初めての海外遠征でその後は平成7年のスキーキャプテンまで4歳馬の遠征は行われませんでした。

 レースの方は保田騎手騎乗でスタートよりすぐ先頭にたち、タケシバオーがマイペースで逃げる展開となりましたが、しかし、道中で後続の馬に蹄鉄が曲がるほど後ろ足を踏み駆けられ、その不利が響いてずるずると後退、結局最後方でゴールとなりました。自分の型に持ち込めたはずだったのが、思いも寄らぬ不運に見舞われ持っている能力をまるで発揮することができなかった悔しさは騎手、調教師、馬主、厩務員、生産者、そしてファンに刻み込まれたことでしょう。その悔しさは翌年の再挑戦に結びついていきます。

 帰国後の2戦は立て続けに2着に敗れますが、その後は東京新聞杯を6馬身、続くオープンレースを大差勝ち、京都記念を62kgで勝ってそのまま天皇賞を圧勝します。夏は休養に取り、春の天皇賞を勝ったことで秋の天皇賞に出走出来なくなったため、秋の最大目標は米国の重賞制覇となるわけです。出国前は国内で3戦し3連勝、昨年よりもひとまわり大きくそして強くなったタケシバオーは入念な調整のもと再度インターナショナルSに向かいます。しかし、前年はレース中の大きな不利で結果が出せなかったタケシバオーが、今度はなんと入国後の調整時期に発熱し、大きく調整が狂ってしまいます。それでもレースには出走しますが、またも最下位、しかも先頭とは34馬身差という結果で、結局タケシバオーは2度の不幸にその能力を存分に発揮することを阻まれました。発熱の原因は主に環境の変化と輸送によるものですが、最下位で終わるような状態であれば、回避しても良かったのではという気もします。現在でもそうですが、海外に連れていったからにはレースに出そうということではなく国外でも、馬本位で、国内にいる場合と同様に、馬自身と直接相談をするぐらいの気持ちでレースの出否は決めるべきです。遠征にかかる多額の費用と期待を考えるとレース回避の決断は勇気のいることでしょう。しかし、遠征中に故障を起こした馬もこれまで何頭かいます。海外遠征の成功とはまず「馬が無事に帰国すること」次に「レースに出走すること」、そして「レースに勝つこと」ではないでしょうか。

 帰国後のタケシバオーは調整中に故障を発生し、インターナショナルSを最後に引退することになります。皐月を2着、ダービーも2着、2度の遠征は大きな不利、と運には見放されてしまったタケシバオー。最後の産駒ももう高齢となってしまいました。



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